ヘ音記号のひとりごと

モノ多め、音多め。日々徒然なるままに生きていきたい。

指導者と、指揮者。

吹奏楽の世界に「指導者」はそれこそたくさんいらっしゃいますが、音楽を純粋に追求してくれる「指揮者」は少なくなったと思います。音楽の本質ってなんだろう。そう考えてしまう飲みの席でした。

本日の駄文

ようやく今月の納期も終わり、なんとかゆとりを持った生活の兆しが見えてきました。とはいえ、来月もそのまた次の月も、同じようなタイミングで死亡フラグが立ちそうな気がして。根本的に仕事のやり方を考えなければならないような気がしている今日このごろです。

指導者と、指揮者。

週末、音楽仲間と飲む機会がありました。そのときにトレーナーの先生もお迎えすることができたのですが、その先生がおっしゃっていたことが痛烈に心に残ったので、ご紹介したいと思います。

先生はプロの演奏家ですので、当然ながらいろいろな方の指揮で演奏されたことがあるそうです。当然ながら演奏するときは指揮者の意向、どういった音楽の表現をすればその指揮者に応えることができるかを考えるそうです。翻り、現在の吹奏楽の世界。周りはみなさん吹奏楽の「指導者」ばかりで、純粋な「指揮者」は本当に少なくなったと嘆いていらっしゃいました。

我々はアマチュア奏者ですから、当然趣味の一環として音楽をやっています。うまくなりたいと思って楽器を弾いています。だからこそ、先生に対しては何らかの指導をしてくださることを期待します。そして自分の楽器の腕、音楽の表現方法なんかはうまくなります。きっと。でもそれはもしかすると自己満足なのかもしれない。一番は、音楽を聴いてくれる方がどう感じてくださるか。たとえ下手くそな表現でも、それを好きだと行ってくれるそんな人がいるのであれば、そちらの路線を目指すことも一つの正解ではないのだろうか。こう考えてしまいました。

先生がおっしゃっていた「指揮者」の棒で、私も演奏させていただいたことがあります。音楽の作り方も個性的だったのですが、それこそ普通の吹奏楽の世界では使わないような表現方法や、楽典のスタンダードとは異なるような弾き方を要求する楽曲の作り方でした。演奏しているときは半信半疑だったのですが、客席で聴いた方に言わせると、その演奏は胸をうつものだったそうです。確かに、これは「指導」ではない、「指揮」なんだ、とはっと気付かされました。

日本の吹奏楽レベルは世界一かもしれません。技術的には素晴らしいかもしれません。ただ、音楽の本質って技術コンテストじゃないと思うのです。テクニカルな現代曲を完璧に演奏するだけの「技術」、それを「指導」してくれる人材だって絶対必要だと思いますが、それと比肩して、音楽を「表現」してくれる「指揮」してくれる人材。こういった人が吹奏楽の世界に目を向けてくれることを願ってやみません。