ヘ音記号のひとりごと

モノ多め、音多め。日々徒然なるままに生きていきたい。

「国葬」で思ったこと

なんだか今回の国葬、マスゴミの報道方法にひたすら翻弄された気がします。偏向報道なされていないメディアを見つけるのが難しい今、昔以上に情報の取り方に気をつけなければならないんでしょうね。

本日の駄文

なぜか、いま、私のメインの仕事となりつつあるPowerPoint作り。ひとりでの作業では手に負えず、いろいろな人に資料作りを手伝ってもらって、集まったのがいま手元にあるのですが…当然ながらテイストがバラバラ。はっきり言って、見づらい。これ、修正作業のほうが余計な手間がかかってしまうのではないかしら、と思ったりして…。

「国葬」で思ったこと

先日、大きな国葬が2つありましたね。1つはエリザベス二世の国葬、1つは安倍元首相の国葬。前者はちょうどゴールデン時間帯に生中継していたのでがっつり見れたのですが、後者はふつうに仕事中だったので、その模様をネットニュース等でつまみ読みしただけですが。なぜこの2つ、こんなに報道のされ方が違うんでしょう???と感じたので、今日はそのことを。

もちろん、住んでる国も違えば文化、宗教も違います。そして彼の国は女王ということで、日本に照らし合わせれば天皇陛下と比較しなければならないのかもしれません。ともあれ、両方とも国葬という「国の名前で行うお葬式」ですよね。その報道っぷりが、エリザベス二世の方は「好意的」であり、安倍元首相の方は「懐疑的」であることが強調されていたような気がします。

特に。安倍さんの国葬は「国葬反対」のみがクローズアップされ、本筋のところはほとんど報道されませんでした。国葬当日に「国葬反対」のデモ活動が行われたのはごくわずか。蓋を開けてみると安倍さんの一般弔問は数時間にもおよぶ長い列になり、世の中の方々との大きすぎるギャップのみが目立つ形となりました。

なぜゆえここまで違うのか…。なんとなくいろいろと考えてみたのですが、声の大きな人が昔よりも声が大きくなり、声を出さない大多数の人の意見が伝わりづらい世の中になったのかなぁと思いました。テレビやインターネット、情報が氾濫している世の中で、情報を発信しやすくなった世の中で、今まで以上に、情報の取り方に敏感でないと、簡単にマスコミに流される。そんな気がしたのです。こと、テレビ。一番気軽で一番公平に扱ってほしいような問題に対しても、どちらかに強烈に肩入れした報道しかしなくなってしまったような気がして、大変残念。いったい何を信じて生きればいいんでしょうか…先の大戦の大本営発表のように、そのうち虚構が報道されたとて、民衆はそれを見抜くだけの力は持っているのでしょうか…。

私自身は、他の人以上にすごく情報に流されやすい人間です。だからこそ、今回の「国葬」の報道のされ方はびっくりしました。うすうす気づいてはいたのですが、本当に情報の触れ方や取捨選択の方法には気をつけなければならない。自分の信じた情報を、多面的に受け入れることで、正しい判断をしなければならない。そう強く感じた今回の出来事でした。

安倍さんにしてもエリザベス二世にしても、亡くなった人は素直に哀悼の意を表し、静かに見送ってあげたいと思います。たとえその人が嫌いだったとて、死者を冒涜するようなことは、なるべくしたくないですよね。普通に考えれば、ね。